「連絡もしないといけないから、ちょっと街まで行ってくるね」

ゆっくりと頷く祖母の姿を確認し、私はドアを閉めた。ドアを1枚隔てた向こう側は、ひどく空気が冷たい。体温を浚う凩に、身を縮めては身震いした。2週間前に引っ越しの片付けも終わり、私たちは無事に新居に辿り着いた。新しい家はちょうど窓から海を眺めることができる。窓を開ければ、冷たい風が潮の香りを孕んで部屋の中で笑うように融けていく。塩辛い香りが肌に張り付くたびに、遠くへと広がる青の途方の無さを感じた。秋でありながら、ほとんど初冬に近い気温に、海もまた青ざめた色を沈黙と共に湛えている。外に出ることにほんの僅かな躊躇いを抱く寒さに、私はそっと息を吐き出した。

街に着いたら、食材の買い足しと、従兄に連絡しなければならない。
街までは徒歩10分で着く程度の距離だった。実際に歩いてみれば、存外遠くはない位置にある。前の街とあまり変わりはないだろう。
ただ、長い間使われていなかった別荘を借りたこともあり、回線に修復が必要だった。明日には業者が回線工事をしてくれる。それまでは、街にあるポケモンセンターで連絡を取らなければならない。しかしそれを含め、私はこの家をとても気に入っている。軽い足取りで歩を進めながら、私は遠くから響く海鳥の甲高い囀りを聞いた。





「――……とりあえず、片付けも終わったから、心配はいらないよ」
『そうか。ならいいんだ』

受話器の向こう側から聞こえた声に、私はいたずらにコードを指に絡める。結局ポケモンセンターまでは行かず、近くの電話ボックスで従兄に連絡を入れた。番号が書かれたメモをポケットの中に戻しながら、枯れ葉が舞う外の景色に目を細める。
……本当は携帯を持っているので、それで連絡を入れれば楽なのだ。しかし彼に番号を教えることに躊躇いを覚え、携帯を持っている事実自体を知らせていない。あまり今の生活に干渉されたくない、というのが大きな理由だった。しかしさすがに所在地を相手が未知というのも問題がある。必要最低限の距離を保つにはこうしている「今」が1番安定するのだ。
……指に絡めたコードを解きながら、脳内をくるくると旋回する言葉を掴み取り、口を開く。

「……あ、あともう1つ。倉庫部屋にたくさん画材が置いてあった。あれ、昔の彼女さんの?」
『ああ、やっぱり処分していなかったか』
「しない≠チて言うよりもできない≠チて方が正しいでしょ」
『まあ、ハズレではないよ』
「じゃあ、たぶん使わないだろうからあのままにしておくね」
『ありがとう』
「そんなことより新しい恋人できたって聞いた。大切にしないとダメだからね」
『心配はいらないよ。僕はそれより君の方が心配だ。大丈夫かい? やっていけそう?』
「私、この街は気に入ったって最初に言ったでしょ」
『まあ……うん。……後でいいや。何かあったら連絡しておいで』
「その台詞は従妹の私より新しい恋人に言ってあげなよ、ダイゴ」
『そのうち、ね』

じゃあまたね、と笑った声に、通信をブツリと切った。手のひらの温度で温くなった受話器を戻し、慎重に指を離す。
あの別荘は、元は彼が恋人のアトリエとして立てた物だった。写真で見た容姿と彼の言葉のみの判断ではあるが、美術系の大学に通う、静かな女性だった。しかしその恋人は5年前に事故で亡くなっている。彼自身がそれをどう受け止めたのかは知らない。だが以来色恋沙汰に関してはあまり良い話を聞いていない。本人は気丈に振る舞っているが、相当尾を引いているのだろう。3ヶ月前にできたという新しい恋人とは、いい加減上手くいって欲しい。
電話ボックスを後にし、そこから見える丘の上の家を見上げた。後になって冷静に考えると、ずいぶんと曰く付きな別荘を借りてしまったと思う。思考に流れ込む陰鬱な塊を踏み砕くように踵を返した。


買い物を済ませた後に、ほんの気まぐれで、遠くで滲んでいる海岸線を目指した。街を下り、砂浜に足跡を残していく。空は灰色にくすんでいた。低空飛行をする鳥の群が雨の気配を呼ぶ。点の集まりのようなその群を目で追うように、私は海岸をぐるりと見渡した。
――すると視界に、何時か見た色が掠め、記憶の引き出しを引っ掻く。爪先で這ってくる水を蹴りながら海岸沿いを歩く背中には見覚えがあった。
空と同じようにくすんだ萌葱色が潮風に揺れていた。チラリと見えた顔は相変わらず暗い双眸をはめ込んでいる。

(……あの時の男の子)

声をかけるほどの繋がりもない。そっと視線をそらすように足下を睨んだ。しかし次いで聞こえた大きな水音に、私は反射的に顔を上げた。彼は海に向かって歩き出していた。身を屈め、何かを探すように細い腕を海水に沈めている。どうしたのだろうか。放っておく、という選択肢もあった。


しかし結局は良心の呵責もあり、私は彼に声が届くであろう位置まで歩を進める。僅かに躊躇った後に、意を決して声を張った。

「風邪を引いてしまうよ」
「!」
「もう海水浴の季節でも、ないし」
「……知ってるよ」

海水から腕を引き上げた彼は、私を見ては困ったように笑んだ。前回のやり取りから身構えていた分、なんだか奇妙な気分だった。……そう思ってしまうことは、失礼なのだけれど。
彼はバシャバシャと音を立てながら海面から上がる。潮水を含んだ服の裾を絞る指先は、冷たく色を無くしていた。同時に頬にひどく冷たく小さな衝撃が走る。指で拭うとまた1つ、頬へとそれは降ってきた。鉛色の雲はついに泣き出してしまったらしい。

「雨……」

ポツリと青年が小さく呟くのが聞こえた。雨粒は乾いた布地に濃いシミを打ち、肥大させていく。本格的に降ってくる前には自宅に帰りたい。思い目の前へとやってきた彼に問いかけた。

「家は?」
「!」
「貴方の、家。近く?」

灰青色の瞳を覗き込みながら問いをより明確なものとして繰り返す。彼は僅かに首を傾げ瞬きしたあとに、まるで何でもないような軽い口調で「家なんてないよ」と答えた。確かに旅をしているトレーナーか何かであるなら、それは至極当然のことだろう。しかしこれで「ああ、そう」と何事もなかったように1人で帰ることはできない。
こうしている間にも雨足は少しずつ、急かすように強くなってきている。私は躊躇おうとする理性を押し殺し、雨宿りに、と彼を自宅へ招いた。





「名前」
「え?」
「キミ、名前は」

自宅に着き、自室からタオルを抱えて戻ってきたと同時だった。彼はタオルよりも、その問の答えを私に優先させた。一瞬だけ動きを止めた私を特に気にかける様子もなく、ただ黙ってこちらを凝視する。不意打ち、と言えば不意打ちだった。自分の名前を口にするだけの至極単純な反応に、私は何秒かの思案を要した。そしてぎこちなく「name」と返すと、彼は「ボクのことはNと呼んで」と零しながらタオルを受け取った。

「ここ、前に見たときは無人だった気がしたけれど」
「私たちがここに引っ越してきたのは2週間前だから。それまではあの橋のある街にいたし」
「ああ、なるほどね」
「あ……N、は、やっぱり旅のトレーナー?」
「さあ、どうだろう」
「?」
「目的地が在るわけではないし、だからといって帰る場所も無いから。ただなんとなくあちこちを見て歩いているだけ」

タオルで髪を掻きながら、抑揚に欠けた声音で彼は言った。彼の言葉が意図する本当の意味が、私にはまだ理解できなかった。ただ言葉のまま受け取り、「大変だね」などと他人事のように流す。事実、この時の私には彼は他人であった。次の瞬間には紅茶とココアのどちらにするかという思索に入り、私は彼の表情が僅かに変化したことを黙殺した。

「……nameは、1人ではなかったよね」
「え? ――ああ、うん。祖母と暮らしてるから」

答えながら、紅茶を3人分用意しようという結論に至る。祖母はここに来てから、気温の変化や環境の変化もあり、体調が芳しくない。今朝も朝食はベッドの上で取った。輪郭を持たない不安が胸中に爪を立てる。敢えて避けてきた想像が、漣のように思考を這い上がった。
それを強引に押し返すように目を伏せる。同時にドアが控え目に開く音が響き、私は瞼を震わせた。おもむろに視線を滑らせる。ショールを羽織った祖母の姿があった。

「おばあちゃん、起きてきて大丈夫?」

明らかに青白い顔色に、私はその傍らへと向かい肩を支える。いつもと変わりない表情で微笑む祖母は、ただ静かに頷くだけだった。次いでその視線はNへと移動する。私が彼をここに連れてきた経緯を簡潔に説明すると、その表情からスッと笑顔が消えた。

「……キミは、やはり間違っているよ」
「!」

Nが何の前触れもなく口を開いた。祖母の肩が震える。それが私に向けられた言葉なのか、祖母に向けられたものなのかは分からなかった。どちらにしても言葉の主旨が理解できない。眉をひそめ、その湖面の瞳を覗き込む。彼は僅かに表情に険しさを滲ませた。

「まだ、気付いていないのかい?」
「何を言っているの?」
「……そうか。やはり気付いていないのか」
「ねえ、ちゃんと分かるように言って。何のことを言っているの?」
「前に会ったときに言っただろ。キミは残酷だね。でも知らずに生きてきたのなら、可哀想だね」

水を含んだ前髪から雫が頬に落とされる。凩が悲鳴を上げながら窓を叩いた。耐えきれず震える窓枠は、カタカタと軋みを上げた。窓の向こう側はザアザアと雨が忙しなく地表を穿っている。
私は無意識に祖母の肩にしがみつくように腕に力を入れる。彼女は私を安堵させるように、温かい手のひらで私の腕をさすった。
Nは、祖母の顔を痛みに耐えるような表情で見つめた。

「絆されているんだね」
「……?」
「ねえ、name。無知であることは、知ろうとしないことは、罪だと思わないかい?」
「言ってることが、わからないよ」
「キミは知ろうとしていないんだ。いいよ、ボクが教えてあげる」

緩慢な足音を立てて、Nは私の前に立つ。見上げた先にある湖面の瞳は、暗く淀んでいた。肌が粟立つような感覚に、指先に力が籠もる。
ふ、と一瞬だけ息を止めた私に彼は冷めた口調で言い放った。

「よく見て。『その子』はキミの祖母ではないだろう?」

キミの祖母は2年前に死んだとトモダチから聞いたよ。
彼の言っていることが全く理解できなかった。





20111031

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